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第1話 妹の代わりに、私が嫁ぎます

Autor: 雫石しま
last update Fecha de publicación: 2026-08-23 10:00:36

「由紀江。お前に話がある」

 

祖父からそう呼び出されたのは、午後の三時を過ぎた頃だった。

西日が傾き始め、庭の松の影が長く伸びる時間。私は実家の長い廊下を歩きながら、小さく首を傾げた。廊下の板の間は古い木の香りがし、足元で微かに軋む。
祖父が私を一人で呼び出すことは珍しい。

しかも、電話ではなく、わざわざこの屋敷まで来るように言われた。何かがあったのだろうか。胸の奥に小さな不安が芽生えながら、私は応接間の重厚な扉に手をかけた。
扉を開けた瞬間、私は足を止めた。

 

「……どうしたの?」

 

そこには父と母、そして妹がいた。

いつもなら、家族が揃っていることに違和感はない。けれど今日は違った。空気が重い。誰も口を開かず、部屋の中に沈んだ沈黙だけが満ちている。
妹は俯き、両手を膝の上で固く握りしめている。指の関節が白くなっているのが見えた。母は泣きそうな顔をして、ハンカチを握りしめたまま視線を落としている。父は難しい顔で窓の外を見つめていた。そして祖父は――いつになく険しい表情で、私を待っていた。

 

「座りなさい、由紀江」

「……はい」

 

私は祖父の向かいに腰を下ろした。革張りのソファは冷たく、背中にその硬さが伝わってくる。

 

「何かあったの?」

 

問いかけても、誰もすぐには答えなかった。時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。やがて祖父が、重い息を吐いた。

 

「九条院家との婚約についてだ」

 

その名前を聞いた瞬間、私は妹を見た。

九条院家。日本でも有数の資産を持つ一族。その跡取りである九条院龍斗さんと婚約しているのは、私ではない。妹だ。

 

「沙奈に……何かあったの?」

 

私が尋ねると、妹の肩が小さく震えた。

 

「お姉ちゃん……」

「うん」

「私……」

 

妹は言葉を詰まらせ、喉の奥で何かを飲み込むように沈黙した。代わりに父が口を開く。声は低く、重たかった。

 

「ブライダルチェックで問題が見つかった」

「……え?」

 

私は意味がわからず、妹を見た。妹の顔は真っ青で、唇が微かに震えている。

 

「九条院家が求めていた条件を、満たせないことがわかった」

「そんな……」

 

胸がざわつく。九条院家が何を重視しているのか、私は知っていた。古くから続く名家。家の存続を何よりも重んじる家。そして、跡継ぎとなる男子を産める女性を婚姻相手に求めている――。けれど、妹の身体を責めることなんて、誰にもできない。

 

「それで……婚約は?」

「解消する方向で話が進んでいる」

 

父の言葉に、妹の目から涙がぽつりと落ちた。膝の上に落ちた雫が、すぐに染み込んでいく。

 

「ごめんなさい……」

「どうして謝るの?」

「だって……」

「あなたが悪いわけじゃないでしょう」

 

私は妹の手を握った。冷たかった。血の気の引いた指が、私の掌の中で小さく震えている。

 

「お姉ちゃん……」

「大丈夫よ」

 

私は笑った。無理にでも、柔らかく。

 

「何とかなるわ」

 

そのときだった。祖父が、静かな声で言った。

 

「九条院家から、一つ条件が出ている」

「条件?」

「婚約者を変更する」

 

私は首を傾げた。

 

「変更って……?」

 

祖父の視線が、まっすぐ私へ向く。その目は、いつもより深く、容赦がなかった。

 

「由紀江」

「……はい」

「お前が、龍斗君に嫁いでくれ」

 

一瞬、何を言われたのかわからなかった。耳の奥で、言葉が反響する。

 

「……私が?」

「ああ」

「沙奈の代わりに?」

「そうだ」

 

応接間の空気が、凍ったように感じた。窓から差し込む西日さえ、急に冷たくなった気がする。私は父を見る。母を見る。誰も否定しない。つまり――本気なのだ。

 

「でも……」

 

声が震える。

 

「私には婚約者がいます」

 

誰も答えなかった。

 

「私には……」

 

もう一度言う。喉が渇いている。

 

「婚約者がいるんです」

「わかっている」

 

父が答えた。視線は私を見ない。

 

「なら、どうして……」

「家の事情だ」

「家の事情って……」

 

思わず声が強くなる。

 

「私の人生も、家の事情で決めるの?」

 

父が黙った。祖父が静かに言う。

 

「本来なら、お前にはお前の人生がある」

「だったら……」

「だが、九条院家との婚姻は、この家にとって大きな意味を持つ」

 

九条院家との取引。

事業。

資金。

人脈。

そして何より、家同士の関係。私は知っていた。

この結婚が、単なる男女の婚姻ではないことくらい。

 

「妹が駄目だったから、私ならいいんですか?」

 

自分でも驚くほど、冷たい声が出た。祖父が目を伏せる。

 

「……そういうことになる」

「私なら、男の子を産めるかもしれないから?」

「由紀江」

「違うの?」

 

誰も答えない。それが答えだった。私は膝の上で手を握った。胸が痛い。鈍い痛みが、じわりと広がる。でも。妹を見る。泣いている。この子が悪いわけじゃない。九条院家の条件を満たせなかったからといって、妹が責められる必要なんてない。私は、妹の頭をそっと撫でた。柔らかな髪が、指に触れる。

 

「泣かないで」

「でも……お姉ちゃんが……」

「大丈夫」

「私のせいで……」

「違うわ」

 

私は妹を抱きしめた。小さな肩が、私の胸の中で震えている。「あなたのせいじゃない」そう言いながら、自分の胸の奥では、別のことを考えていた。

――私が嫁げば、妹は自由になれる。

それなら。私が我慢すればいい。

 

「……わかりました」

 

静かな声が、部屋に落ちた。

 

「私が嫁ぎます」

「由紀江!」

 

母が驚いた顔をする。祖父も聞いた。

 

「本当にいいのか?」

 

私は頷いた。

 

「沙奈を責めないでください」

「……」

「九条院家にも、沙奈のことを悪く言わせないで」

「ああ」

「それだけ約束してください」

 

祖父は深く頷いた。

 

「約束する」

 

私は目を閉じた。

 

そして、その瞬間。頭に浮かんだのは、婚約者の顔だった。

 

幼い頃から知っている。穏やかで。優しくて。誰に対しても礼儀正しい人。レストランへ行けば、料理を運んできた店員に『ありがとうございます』と笑い、帰るときには『ごちそうさまでした』と必ず言う。怒鳴ったところなんて、一度も見たことがない。私は、その人との未来を想像していた。派手ではなくても。穏やかで。笑って。互いに支え合う。そんな家庭を。けれど。その未来は、今日で終わる。

 

◇

 

その日の夜。

私は彼に会うため、いつものレストランへ向かった。街灯の明かりが濡れた路面を照らす中、私は重い足を運ぶ。先に来ていた彼は、私を見ると柔らかく笑った。

 

「由紀江」

「待たせてごめんなさい」

「ううん。今来たところ」

 

いつもの穏やかな声。それだけで、胸が苦しくなる。テーブルの上のキャンドルが、小さく揺れていた。

 

「何かあった?」

「……どうして?」

「顔が暗いから」

 

私は答えられなかった。彼は何も急かさず、ただ待っている。その優しさが、今は辛かった。

 

「婚約を……解消してほしいの」

 

彼の表情が止まった。微笑みが、そのまま凍りついたように消える。

 

「……え?」

「ごめんなさい」

「どうして?」

「家の事情で」

「家の?」

 

私は頷いた。

 

「妹が……沙奈が九条院家との婚約を続けられなくなったの」

 

彼は黙って聞いていた。視線は優しく、ただ私を見つめている。

 

「だから、私が妹の代わりに九条院龍斗さんと結婚することになった」

 

長い沈黙。

やがて彼が、静かに尋ねた。

 

「由紀江は、それでいいの?」

 

その言葉に、涙が出そうになった。喉が詰まる。

 

「……うん」

「本当に?」

「うん」

「嫌じゃない?」

 

私は笑った。無理に、口角を上げて。

 

「嫌よ」

 

正直に言う。

 

「でも、仕方ないの」

「仕方ない、か……」

 

彼は俯いた。そして、しばらくしてから顔を上げた。目元が、少しだけ潤んでいる。

 

「僕は、由紀江を責めないよ」

「……ごめんなさい」

「だから謝らなくていい」

 

その声は、いつもと同じだった。穏やかで。優しくて。角がない。

 

「僕にできることなら何でも言って」

「……」

「ただ」

 

彼が少しだけ寂しそうに笑った。

 

「幸せになってほしい」

 

私は俯いた。テーブルクロスの白い模様が、ぼやけて見える。

 

「無理かもしれない」

「どうして?」

「九条院龍斗さんって……」

 

私は言葉を選んだ。

 

「少し、怖い人みたいだから」

 

彼は眉を寄せた。

 

「何かされた?」

「まだ何も」

「なら、決めつけなくていい」

「……そうね」

「会ってみないと、人のことなんてわからないから」

 

私は頷いた。

でも。数日後。私は思い知ることになる。この人の言葉が、どれほど優しかったのかを。

 

◇

 

三日後。

私は龍斗さんとの顔合わせのため、高級レストランへ向かった。大理石の床が光を反射し、低く流れるクラシック音楽が、静かな緊張をさらに引き立てている。指定された席に座っていると、ほどなくして男性が入ってきた。
黒いスーツ。整った顔。鋭い目。

周囲の人間が、彼の姿を見て一瞬静かになる。空気が張り詰めるような気配だった。

 

「九条院龍斗だ」

 

それが第一声だった。冷たく、事務的な声。

 

「由紀江です。本日は――」

「座って」

「……はい」

 

彼は私の向かいに座った。挨拶も。笑顔もない。ただ、物を見定めるような視線が私を捉える。

 

「結婚については聞いている」

「はい」

「俺は仕事が忙しい」

「承知しています」

「結婚後も家にいる時間は少ない」

「はい」

「それでも妻としての役割は果たしてもらう」

「……妻としての役割?」

「家のこと。俺の生活の管理。それから――」

 

龍斗さんは、まるで業務内容を読み上げるように言った。

 

「跡継ぎを産むこと」

 

私は黙った。胸の奥が、冷たく縮こまる。

 

「男子が望ましい」

「……はい」

「君もそのつもりで嫁ぐんだろう?」

 

私は小さく頷いた。

 

「はい」

 

すると龍斗さんは、少しだけ満足そうにした。唇の端が、微かに上がる。

 

「話が早くて助かる」

 

料理が運ばれてきた。私は緊張しながら箸を取る。そのとき。店員がグラスを置く際、ほんの少し手元を滑らせた。水滴がテーブルクロスに落ちる。

 

「申し訳ございません!」

 

龍斗さんの眉が動いた。

 

「何をしている」

「申し訳ありません」

「客の前でそんなミスをするな」

「はい……」

「下がれ」

 

店員が青ざめて去っていく。背中が小さく縮こまり、足音さえ控えめで消えていった。私は、その背中を見つめた。胸の奥が、冷たくなった。ふと、元婚約者の顔が浮かぶ。彼なら。きっと、『大丈夫ですよ』と優しく言い、店員が怪我をしていないか確認したはずだ。目の前の男は違う。人を失敗したか、役に立つかでしか見ていない。龍斗さんが私を見る。

 

「何だ?」

「……いえ」

「何か言いたそうだな」

「いいえ」

「そう」

 

彼はワインを口にした。グラスの縁が、冷たい光を反射する。

 

「君は俺に何か期待しているのか?」

「……いいえ」

 

私は首を横に振った。

 

「何も」

 

その答えに。なぜか龍斗さんは、ほんの少しだけ不満そうな顔をした。眉間に薄い皺が寄る。私はまだ知らなかった。

 

この男が。人を愛する方法を知らない男が。

やがて私が自分に何も期待しないことを、何より恐れるようになることを。

 

そして――。

この日の私はまだ。自分がこの男の妻になり、やがてこの男自身の手によって、すべてを失うことになるなんて。知るはずもなかった。

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  • 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~   第42話 赤ん坊なんていらない

     その日は。 朝から落ち着かなかった。 何度も時計を見てしまう。 午前十時。 十時十五分。 十時二十五分。 そして。 十時半。 搬入口へ続く廊下から、車の音が聞こえた。 納品業者が来た。いつもとは違う時間、ベビーベッドが運び込まれる。 私はリビングにいた。 龍斗さんは書斎にいる。 美和さんはキッチン。 警備員は玄関側。 昨日、私は覚えた。 人の動き。 警備員の交代。 搬入口の扉が開く時間。 そして。 業者が荷物を運び込むとき、一瞬だけ人の出入りが重なることも。 今日。 ここから出る。 私は朝から何度も自分へ言い聞かせていた。 怖い。 もちろん怖い。 でも。 ここに居続けるほうが。 もっと怖かった。 私はお腹へ手を当てた。「大丈夫」 小さく呟く。「お母さんが守るから」     ◇ 十時三十分。 キッチンから、美和さんの声が聞こえた。「ありがとうございます。こちらへお願いします」 業者が来た。 扉が開く。 閉まる。 また開く。 人の声が重なる。 私は立ち上がった。「奥様?」 美和さんが振り返った。「少し、部屋へ戻ります」「はい」 私は廊下へ出た。 心臓が激しく鳴っている。 けれど。 歩く。 搬入口のほうへ。 一歩。 また一歩。 警備員がこちらを見る。「奥様」「……はい」「どちらへ?」「少し外の空気を吸いたくて」「申し訳ありません」 警備員が立ち塞がる。「社長から、外へ出さないように指示されています」「……」 私は足を止めた。 やっぱり。 でも。 ここで諦めるわけにはいかない。「搬入口へ行くだけです、ベビーベッドが早く見たくて」「それもお控えください」「どうして?」「社長の指示です」 私は唇を噛んだ。 そのとき。 搬入口の扉が開いた。 業者の男性が荷物を運び込んでいる。 警備員の視線が、一瞬そちらへ向いた。 今。 私は走った。「奥様!」 後ろから声がする。 私は搬入口へ向かった。 扉の向こう。 外が見える。 ほんの数メートル。 あと少し。 あと少しで。 外へ出られる。 私は手を伸ばした。 けれど。 腕を掴まれた。「お待ちください!」「離して!」 私は必死に振りほどこうとした。「離してくださ

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